ブルース、ロック、日本語の詩の世界観
ブルース、ロック、日本語の詩の世界観
どうも、サニータジマです。
今回は、日本語で歌うということは、どういう事なのかを自分なりに考えてみました。
では、早速まいりましょう!
僕はブルースを日本語で歌っていますが、
先ず、ギターをコピーして練習して、
今度は歌を入れてみる。
僕は英語が喋れないので、歌詞を見ながら聴きこんで覚えていく。
で、あるとき人前で演奏することがあって、
でも、演奏すると失笑&爆笑
いやもう頭にきましたし、
コール&レスポンスじゃなくて失笑&爆笑ってあなた…
あー、やっぱり日本でブルースは難しいのか、
わかっちゃいない連中だ。
と思ったわけですが、
やっぱり、失笑&爆笑でした。
もうね、全く英語に聞こえないわけです。
なんでしょうか、英語なのか?中国語なのか?日本語なのか?
これはどうしよう、と思ったわけです。
ちょっと待てよ、
別にブルースを日本語で歌ったっていいんじゃないか?
僕が好きなルースターズは、
自分もそれをやってみようと思い、
日本語とはどういう言語か?
自分が使っている日本語とは、どういう言語か?
と、そこから始めました。
ありがとうはThank you
はじめましてはNice to meet you
調子はどう?How are you?
また会いましょう see you again.
英語には必ずYouが出てきますが、
日本語には出て来ません。
日本語には人称が出てこないんです。
そういえば、禅の思想とかも、
英語、フランス語、中国語等の日本語以外の言語は、
It’s hot は日本語だと
A「暑いねー」
B「ねー」
で済んでしまうわけです。
主語がなくても意味が通じちゃう!なんて便利な。
これは、どちらが良い悪いじゃなくて、
英語は他者との関係性を明確にする言語で、
その為、どうしても英語は自己主張が強くなり、
言語が民族性をつくっているのか?
民族性ゆえの言語なのか?
「言葉が先にあった」ということなのでしょうか?
よくよく考えてみると面白いですね。
訳詞の違和感
僕は、洋楽のCDを買うとCDを聴きながら、
対訳の歌詞にどことなく、
自分的には無意識のうちに「詩」を求めていたけど、
「詩」というより「主張」だったのですね。
アメリカでは主張できないと生きて行けないと聞いた事があります
学校でもグループワークやプレゼンがよくあって、
その話を聞くと、僕はアメリカでは生きて行ける気がしません。
言葉のニュアンス
対訳を読んで違和感を持ったと書きましたが、
疑問に思います。
その言語の持つニュアンスを、
「古池や 蛙飛び込む 水の音」英語にすると
「Old pond Frogs jumped in Sound of water.」
んー、英語だと蛙が飛び込む「ポチャン」
「松島や ああ松島や 松島や」
誰が何処で、なんで松島と言ったのか、
日本の歌詞だと「君が好き」という内容の歌でも、歌詞の中に「
「好き」という言葉を使わずに「好き」
全てを語ってしまったら、何の意味も無くなってしまうのです。
サザンオールスターズの「真夏の果実」は、
彼女はもう居ないけど、あの夏の日、
ということを歌っていると僕は捉えていますが、
歌詞の中の主人公が、
なのに、聴いていると彼女と過ごした情景が目に浮かぶ
素晴らしい歌詞だと思います。
また同じ文章でも、
川端康成の雪国ですが
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
これを英語にすると
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
英語圏の人はこの文章を読むと、
雪に覆われた山があり、
それと違って、
英語では、列車を空撮している光景で、
全く違ってくるわけです。
噂では、作家の村上春樹さんは
一旦全部英語で書いて、
あくまでも噂なのですが、
曖昧な日本語
今迄「曖昧な日本人」とか「NOと言えない日本人」とか
「
日本語を使って生きて行くのであれば、
むしろ、
曖昧で聴いてる人の想像力をかき立てる
そんな歌詞が書けたら素晴らしい
とここまで書いてきましたが
英語で歌うことも挑戦したいと思っているのですよ。
英語の持つあのグルーヴ感、そこは掴んでおきたいですよ。
英語はリズムの文化、日本語は詩の文化、
また今度、その辺を考えてみたいと思います。
ありがとうございました。