武士道的な音楽、音楽道、ブルース道
武士道的な音楽
僕は武道、未経験なんですが
武道の思想や哲学、立ち振る舞いとかが凄く好きなんです。
武道をやった事はないんですけどね。
オイゲン・ヘリゲル著の
「弓と禅」という本があります。
僕が持っているのは、角川ソフィア文庫の
「新訳 弓と禅」です。
この本は、ドイツ人のオイゲン・
日本に滞在したときの日本体験記で
禅の思想を学びたいと思っていたオイゲン氏が、東北帝国大学(
禅寺で禅を学ぼうとしたけど、うまくいかず
奥様が華道や水墨画を習い始めたところ、
道の中には禅の教えが沢山あることに気付き、
射撃の経験があったことから弓道を習い始めたそうです。
(射撃の経験は何の役にも立たなかったのですが)
(阿波研造 オイゲンヘリゲル)
戦前から、コンスタントに読まれ続け
スティーブ・ジョブズ氏が愛読していたこともあって、
なんせ戦前の日本体験記ですから、
その頃の日本人から見れば、僕たちは外国人かもしれません。
戦前に書かれた本なので、難しい箇所もありますが、
今では、僕のバイブルです。
音楽と道
それが、そうして音楽と結びつくのか?
今ではYouTubeで世界中のプレイヤーの演奏動画を見れます
まあ、凄く上手い人って星の数ほどいるんですよ。
僕はブルースギターを始めたのが、37歳からですから、
上手くなるのって、
単純に沢山練習してきた人の方が上手いに決まってるわけです。
この時点で、自分の人生で何処まで達成できるのか考えると、
いや、でもでも
いろんな動画を見ていると、
じゃあ、自分はテクニックよりそこを目指そうと思いました。
表現するとは何か?
自己の世界観を確立するとは何か?
音楽を通して自分と向かい合う、
ブルースなんて単純なので、
数曲、同時進行で練習していても、知らない人からは
「
「いやいや、全て違う曲ですけどっ!」
テクニックに重点を置かないと、飽きる事は無いです。
向き合うのは自分ですから。
「日本の道は全てある程度まで仏教の精神を共有しているが、
脱力
「弓道はスポーツではありません。したがって、
弓を引くのはどう見ても力が必要だと思うのですが、
オイゲン氏は師から力で引いてはなりませんと教わりました。
師匠が弓を引いている状態のとき、身体を触ってみると、
楽器の演奏でも、脱力は重要です。
力が入ってしまうと良い演奏はできません。
オイゲン氏も悪戦苦闘したそうです。
その時、師から
「あなたが弓を正しく引けないのは、肺で呼吸しているからです。
このように呼吸できるようになると、あなたは力を抜いたまま、
物事をいわばその自然な重力に任せる忍耐 も教えられた。
この呼吸法、座禅や瞑想、ヨガ等と同じですね。
最近ではマインドフルネスとかいって、
僕も座禅を始め、最初は30分でしたが20分になり…
やらなくなってしまいました。
これはいかん!と思い直し、空いた時間に10分でも5分でも、
やってみると、ドッシリ落ち着く感じで、
僕はよく「肩の力を抜いて」と言われることが多かったのですが、
肩を下に降ろすと余計な力が抜けます。
剣豪といわれる、坂本龍馬や土方歳三などの写真を見ると、
これは、肩を下に降ろすことによって、横隔膜が下がり、
オイゲン氏は呼吸法の習得に一年かかったそうです。
無心
弓を正しく引くことが出来るようになったら、次の課題、
矢を放つ射の習得です。
弓を射るとオイゲン氏は、かなりの衝撃を感じたようですが、
楽器の演奏でも、達人はとても滑らかに弾くことができます。
滑らかだけど、強弱や力強さは感じ取れますね。
オイゲン氏は、ここでも苦戦します。
師と同じように矢を放っても、どうしても衝撃が走ります。
「あなたの一番の欠点は、
師匠の言っていることは、わかるような、わからないような…
オイゲン氏は、
と食い下がります。
「あなたは本当は無であるべきで、考えるのでも、感じるのでも、
私が無であったら、いったい誰が射るのでしょうか?
「あなたは、無心であるように努力しています。
努力、脳科学では努力や頑張る時点でダメなのだそうです。
努力や頑張りには、
脳は嫌なことは避けなければと、
武道でも、強くなりたいと思っているうちは強くなれません。
既に、弱さに縛られているから。
音楽でも、上手くなろうと思っているうちは上手くなれません、
そんな事を忘れ音楽に没頭したとき、
オイゲン氏は、欧米人の合理主義的な発想で、
結局は上手く行かず師匠の言うとおりに稽古に励みました。
稽古から4年経って、初めて的を撃つ事を許されたそうです。
今迄は2m程の先にある、
4年間もずっと基礎を稽古していたんですよ。
基礎練習って退屈で、とっとと先に進みたいと思いますが
やっぱり、基礎を徹底的に練習した方が後がスムーズにいきます。
土台がしっかりするわけですからね。
ボクシングでも「ジャブを制する者は、世界を制す」
的を狙わず、的を射て
的は30m先にあり、
師がオイゲン氏の弓を手に取り、
僕のギターも、師に数回弾いてもらいたい。
的があるのに、的を狙ってはいけないと師は説きます。
「私が仏陀のように眼を殆ど閉じていると、
ーあなたは的を狙うのではなく、自己自身を狙うのであれば、
全ての矢を的に当てるのは、
全ての曲をそつなく演奏出来るのは、
ロバートジョンソンも神がかった曲は、数曲かもしれません。
レコーディングで数曲神がかるなんて、
ロバートジョンソンは悪魔がかってんのかな。
オイゲン氏は一生懸命稽古に励んでも、成果がない。
的を狙わずに、的に中てるということをどうしても理解出来ず、
出来ないという意識に囚われ、一歩も前へ進めませんでした。
そんなオイゲン氏を見かね、
師が夜の9時頃、道場へ来るように言いました。
「それ」が矢を射るところを見せるそうです。
暗闇の中で…
戦前の夜9時だから真っ暗でしょう。
的の手間に線香を一本立てる、灯はこれだけ。
師は無言のまま、
2本目の矢も命中したのが分かった。
オイゲン氏が的を確認に行くと、愕然としたそうです。
一本目の矢は、的の真ん中に刺さり、
二本目の矢は、
うっそぉー、
「甲の矢が中たったことは、ー私はこの道場で三十年以上も稽古しているので、暗闇であっても的がどこにあるか知っているに違いないから。その限りでは、あなたは正しいかもしれない。
けれども、乙の矢はどうか。これ『私』に起因することではありません。『私』が中てたのでもありません。こんな暗闇の中で狙えるものか、あなたはとくと考えてください。これでもまだ狙わなければ中てられないという思いに止まろうと思われますか」
一本目の矢が中たったことは、
目をつぶってでも当てることは、出来るかもしれないが
二本目の矢をあなたはどう思うのか。
この時から、オイゲン氏は師匠にあれこれ聞くのはやめ、
自分の生涯において成し遂げられるのか、
中たりは、もうどうでも良いと思えた頃から、
音楽でも上手いかどうかは、どうでも良いと思えたとき、
神がかりな演奏が出来るかもしれません。
帰国
稽古から6年経ち、オイゲン氏は免許皆伝となり帰国しました。
帰国してからも手紙で、
オイゲン氏は帰国後、自らが執筆した、
そのことを嘆く学者は大勢います。
「弓と禅」
単純なものほど奥が深く、
一つのことを極めていくと、同時に人生も豊かになる。
自分でコントロールするのを止めて、「それ」
「考えるのをやめなさい、自我を捨て心を無にして的を射よ」