武士道的な音楽、音楽道、ブルース道

武士道的な音楽

僕は武道、未経験なんですが

武道の思想や哲学、立ち振る舞いとかが凄く好きなんです。

武道をやった事はないんですけどね。

オイゲン・ヘリゲル著の
「弓と禅」という本があります。

僕が持っているのは、角川ソフィア文庫の

「新訳 弓と禅」です。

この本は、ドイツ人のオイゲン・ヘリゲルさんが戦前の1924年〜29年まで、

日本に滞在したときの日本体験記で

禅の思想を学びたいと思っていたオイゲン氏が、東北帝国大学(現在の東北大学)の哲学講師として来日され

禅寺で禅を学ぼうとしたけど、うまくいかず

奥様が華道や水墨画を習い始めたところ、

道の中には禅の教えが沢山あることに気付き、

射撃の経験があったことから弓道を習い始めたそうです。
(射撃の経験は何の役にも立たなかったのですが)

(阿波研造 オイゲンヘリゲル)

戦前から、コンスタントに読まれ続け

スティーブ・ジョブズ氏が愛読していたこともあって、現在でも禅の入門書として広く読まれています。

なんせ戦前の日本体験記ですから、

その頃の日本人から見れば、僕たちは外国人かもしれません。

戦前に書かれた本なので、難しい箇所もありますが、引き込まれてしまいました。

今では、僕のバイブルです。

音楽と道

それが、そうして音楽と結びつくのか?

今ではYouTubeで世界中のプレイヤーの演奏動画を見れます

まあ、凄く上手い人って星の数ほどいるんですよ。

僕はブルースギターを始めたのが、37歳からですから、10代からギター弾いてる人には、到底敵いません。

上手くなるのって、その物事にどれだけ時間を掛けて取り組んだかってのがあって、

単純に沢山練習してきた人の方が上手いに決まってるわけです。

この時点で、自分の人生で何処まで達成できるのか考えると、悲しくなります。

いや、でもでも

いろんな動画を見ていると、決っして上手いというわけでもないのに、もう一度見たいと思わせる人っているんですよ。

じゃあ、自分はテクニックよりそこを目指そうと思いました。

表現するとは何か?

自己の世界観を確立するとは何か?

音楽を通して自分と向かい合う、道としてブルースを捉えていくことにしたわけです。

ブルースなんて単純なので、ただの音楽として演っていると飽きるんですよ。

数曲、同時進行で練習していても、知らない人からは

何故いつも同じ曲を練習しているのか?」と言われたりします(笑)

「いやいや、全て違う曲ですけどっ!」

テクニックに重点を置かないと、飽きる事は無いです。

向き合うのは自分ですから。

「日本の道は全てある程度まで仏教の精神を共有しているが、さしあたり“技で掴むことができる”のであり、そこから決して掴めないもの、把握できないもの(禅の悟り)へと移行していくのが容易にできるだろうからです。」

脱力

「弓道はスポーツではありません。したがって、あなたの筋肉を発達させるようなことは何もしません。あなたは、腕の力によって弓を引っ張らず、弓を“精神的”に引くことを学ばなければなりません」

弓を引くのはどう見ても力が必要だと思うのですが、

オイゲン氏は師から力で引いてはなりませんと教わりました。

師匠が弓を引いている状態のとき、身体を触ってみると、ユルユルだったそうです。

楽器の演奏でも、脱力は重要です。

力が入ってしまうと良い演奏はできません。

オイゲン氏も悪戦苦闘したそうです。

その時、師から

「あなたが弓を正しく引けないのは、肺で呼吸しているからです。息をゆっくりと押し下げて、腹壁が適度に張るように、そこで息をしっかりと保ちなさい。力づくで息を押し込めることなく、どうしても必要なだけ息を吸い、吐きなさい。
このように呼吸できるようになると、あなたは力を抜いたまま、負担が軽くなった腕で弓を造作なく引けます。というのも、力の中心を下へと移しているからです」

物事をいわばその自然な重力に任せる忍耐 も教えられた。

この呼吸法、座禅や瞑想、ヨガ等と同じですね。

最近ではマインドフルネスとかいって、オリンピックの選手や米軍特殊部隊などが取り入れているそうです

僕も座禅を始め、最初は30分でしたが20分になり…10分になり…

やらなくなってしまいました。

これはいかん!と思い直し、空いた時間に10分でも5分でも、毎日行っています。

やってみると、ドッシリ落ち着く感じで、頭がスッキリ冴えてきますね。

僕はよく「肩の力を抜いて」と言われることが多かったのですが、言われなくなりました。

肩を下に降ろすと余計な力が抜けます。

剣豪といわれる、坂本龍馬や土方歳三などの写真を見ると、結構な撫で肩です。

これは、肩を下に降ろすことによって、横隔膜が下がり、重心が下腹へ行き無駄な力が抜けることを知っていたとか

オイゲン氏は呼吸法の習得に一年かかったそうです。

無心

弓を正しく引くことが出来るようになったら、次の課題、

矢を放つ射の習得です。

弓を射るとオイゲン氏は、かなりの衝撃を感じたようですが、師を見ていると全く衝撃を感じません。

楽器の演奏でも、達人はとても滑らかに弾くことができます。

滑らかだけど、強弱や力強さは感じ取れますね。

オイゲン氏は、ここでも苦戦します。

師と同じように矢を放っても、どうしても衝撃が走ります。

「あなたの一番の欠点は、あなたが立派な意志を持っていることです。あなたは、矢が丁度よい時だと感じ考えた時に、矢を射放そうと意欲され、意図的に右手を開いています。あなたは無心であることを学ばなければなりません」

師匠の言っていることは、わかるような、わからないような…

オイゲン氏は、引き絞った弓を意識して放さなければ射は生じません。
と食い下がります。

「あなたは本当は無であるべきで、考えるのでも、感じるのでも、意欲するのでもありません。術なき術は、あなたが完全に無我となり、自己自身をなくすことに本質があるのです。完全に無我であることが出来るようになれば、射はうまくいくでしょう」

私が無であったら、いったい誰が射るのでしょうか?

「あなたは、無心であるように努力しています。無心になろうと意図するから、それ以上進めないのです」

努力、脳科学では努力や頑張る時点でダメなのだそうです。

努力や頑張りには、本当は嫌だけどやる的なニュアンスが含まれているので、

脳は嫌なことは避けなければと、ありとあらゆる出来ない理由を探してしまうそうです。

武道でも、強くなりたいと思っているうちは強くなれません。

既に、弱さに縛られているから。

音楽でも、上手くなろうと思っているうちは上手くなれません、

そんな事を忘れ音楽に没頭したとき、既に上手くなっているんだと思います。

オイゲン氏は、欧米人の合理主義的な発想で、技巧的にやっていけば上手く行くんじゃないかと考えたりしますが

結局は上手く行かず師匠の言うとおりに稽古に励みました。

稽古から4年経って、初めて的を撃つ事を許されたそうです。

今迄は2m程の先にある、藁束に向かって矢を射っていたそうです。

4年間もずっと基礎を稽古していたんですよ。

基礎練習って退屈で、とっとと先に進みたいと思いますが

やっぱり、基礎を徹底的に練習した方が後がスムーズにいきます。

土台がしっかりするわけですからね。

ボクシングでも「ジャブを制する者は、世界を制す」と言いますね。

的を狙わず、的を射て

的は30m先にあり、オイゲン氏は全く的に当てることが出来なかったそうですが、

師がオイゲン氏の弓を手に取り、数回引くと不思議なことに矢が的に当たったそうです。

僕のギターも、師に数回弾いてもらいたい。

的があるのに、的を狙ってはいけないと師は説きます。

「私が仏陀のように眼を殆ど閉じていると、やがて的は私と一つになります。的と私が一つということは、仏陀と一つであることを意味します。

ーあなたは的を狙うのではなく、自己自身を狙うのであれば、あなたは自己自身に中たるのであり、同時に仏陀に、そして的に中たるのです」

全ての矢を的に当てるのは、曲芸師であって弓道ではないと師は説きます。

全ての曲をそつなく演奏出来るのは、曲芸であってブルースではないような気がします。

ロバートジョンソンも神がかった曲は、数曲かもしれません。

レコーディングで数曲神がかるなんて、普段どんだけ神がかってんだよ。

ロバートジョンソンは悪魔がかってんのかな。

オイゲン氏は一生懸命稽古に励んでも、成果がない。

的を狙わずに、的に中てるということをどうしても理解出来ず、

出来ないという意識に囚われ、一歩も前へ進めませんでした。

そんなオイゲン氏を見かね、

師が夜の9時頃、道場へ来るように言いました。

「それ」が矢を射るところを見せるそうです。

暗闇の中で…

戦前の夜9時だから真っ暗でしょう。

的の手間に線香を一本立てる、灯はこれだけ。

師は無言のまま、矢を射ると衝撃音で的に中たったことが分かった。

2本目の矢も命中したのが分かった。

オイゲン氏が的を確認に行くと、愕然としたそうです。

一本目の矢は、的の真ん中に刺さり、

二本目の矢は、一本目の矢を引き裂いて真ん中に当たっていたそうです。

うっそぉー、という感じですが弓道の世界ではあることだそうです。

「甲の矢が中たったことは、ー私はこの道場で三十年以上も稽古しているので、暗闇であっても的がどこにあるか知っているに違いないから。その限りでは、あなたは正しいかもしれない。

けれども、乙の矢はどうか。これ『私』に起因することではありません。『私』が中てたのでもありません。こんな暗闇の中で狙えるものか、あなたはとくと考えてください。これでもまだ狙わなければ中てられないという思いに止まろうと思われますか」

一本目の矢が中たったことは、師は何十年と修行している道場なので、

目をつぶってでも当てることは、出来るかもしれないが

二本目の矢をあなたはどう思うのか。

この時から、オイゲン氏は師匠にあれこれ聞くのはやめ、稽古に励んだそうです。

自分の生涯において成し遂げられるのか、ということも自分の手の内にはない

中たりは、もうどうでも良いと思えた頃から、師から賞賛される射が増え、自分でも良い射、悪い射がわかるようになったそうです。

音楽でも上手いかどうかは、どうでも良いと思えたとき、

神がかりな演奏が出来るかもしれません。

帰国

稽古から6年経ち、オイゲン氏は免許皆伝となり帰国しました。

帰国してからも手紙で、師である阿波研造氏との交流は続いたようです。

オイゲン氏は帰国後、自らが執筆した、哲学の原稿を全て灰にしてしまったそうです。

そのことを嘆く学者は大勢います。

「弓と禅」は公演用の原稿がたまたま残っていて編集したものです。

単純なものほど奥が深く、

一つのことを極めていくと、同時に人生も豊かになる。

自分でコントロールするのを止めて、「それ」に身を任せることも重要なのだと思います。

「考えるのをやめなさい、自我を捨て心を無にして的を射よ」

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